よそう快感

Share this post

よそう快感に目覚めた。グラタンを作ろうと、クリームシチューの残りに茹でたペンネを入れて混ぜ、お玉ですくってグラタン皿にたっぱたっぱと盛り付けていた時。ほどよい重みとソースのとろみが確かな手応えを与え、一杯よそうごとに皿の上で平になろうとする流動的な感触。一皿が完成するまで3回から4回くらい盛り付ける必要がある、多すぎでも少なすぎでもない満足感が得られる回数。まるで自分が給食調理のプロフェッショナルになったような、自分の手際が感覚の気持ちよさに直結するところがいい。

こんな楽しみを、日々の料理で気づくことはなかった。お味噌汁や白米の盛り付けでは、きっと何か不足があるのだろう。お味噌汁は液状のため、そもそもよそっている感覚が乏しい。白米は粘りによって一塊になるのでお椀の上に積み重ねる感覚が近く、よそっても鈍く揺れる程度だからおもしろくないのだろうか。

でも、炊き上がる前の米の状態は好きだ。引っ越した際に、白い円筒状のホーローでできた米びつを買った。丸い蓋を開け、さらに内蓋を開けると、半透明の米が隙間なく敷き詰められている。その整然とした姿は、調理するこちらの姿勢をピシリと正してくれるような気がする。米がなくなってきたら、通販で買った5kgの白米を開封し、こぼれないようにそっと流し込む。サーーーと細かい音が広がって、徐々に低音になり、パラパラッと米粒が落ちる音がして終わる。あの音の変化も好きだ。そして真っ白なおひつの中に、薄白い米をぎっしり詰め込むことには静かな感動がある。米を蓄えているという実感が、原始的な喜びにもつながっているかもしれない。実家では大きなタッパーに保存していて、米を出したりしまったりの作業は億劫だと思っていたが、器を変えるだけでこんなに心地よい作業に変わるとは知らなかった。

他にも快感が得られる食べ物はないかと思い返してみたけれど、今はこの二つ以外に見つかっていない。きっと気持ちいいだろうと見込んでいるのは、銀色の円筒鍋に詰まった豆花だ。なめらかなその平面をお玉ですっと掬い取り、次々と曲面を掘っていくのは楽しいに違いない。わたしだったらお玉を思い切り深く沈ませて抉ってみたい衝動に駆られるが、店員の人はお玉に乗る程度の浅い面積しか掬い取らない。せっかく深い鍋を使っているのにと、焦ったく思ってしまう。豆花すくい放題の屋台があったら大繁盛になるだろうな。

Share this post